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東京タワーの足下で(古い雑誌から) 2017-01-31

『ヒッチコックマガジン』1960年4月号です。創刊は1959年6月22日でした。21日発売のはずが、日曜日にあたってしまって1日延びた。当日の朝日新聞第1面にサンムツ広告が出ています。創刊号の目次の裏には、江戸川乱歩が「ヒッチさんのこと」という小文を寄せ、“…この雑誌は編集もレイアウトも、新時代の若い人々にやってもらうことになっている。たっぷりある色ページにも充分その味が出ていることと思う。若い読者層の同感を得れば幸いである”と締め括っている。

編集長は中原弓彦(=小林信彦)。『東京のドン・キホーテ』(晶文社)に収録されている全編集後記のうち、1961年8月の分が創刊までの簡単な経緯にふれています。
「二年前の冬、失業保険が切れかかって、もう自殺するより手はないな、と池袋職安のベンチでボンヤリ考えていた私は、江戸川先生から電話を受けた。新しい雑誌が出るから手伝わないか、といわれて、直ちに弟(小林泰彦というのは、実は、私の実弟だ)ともう一人の助っ人と三人で、私の下宿の狭い部屋で見本を作りにかかった」。

1946年創刊の『宝石』という推理小説雑誌がありました。1958年からの版元は宝石社ですが、経営は芳しくない。松本清張が『宝石』に連載していた「ゼロの焦点」が1959年に完結したとき、単行本が最終回の掲載号より一日早く、別の出版社から発売されてしまった。清張はお詫びのしるしに応接セットの寄付を申し出たのだが、編集部の嘆願で電話を一本増やしてもらったというエピソードがあるほどです。見かねた乱歩が、自前の金と顔でテコ入れに乗り出していました。小林は、「こんなつまらない編集をやって」とか「もう少しましな雑誌にしろ」などと投書していたのが縁で、ミステリ時評を載せることになる。

清張の電話の話は小林の『回想の江戸川乱歩』(文春文庫)に出てきます。小林兄弟が対談しているのですが、それによると、本国版『アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリ・マガジン』は、
「ヒッチコックは実際には関係してなくて、パトリシア・ヒッチコックという娘さん、『見知らぬ乗客』で殺される役の、眼鏡をかけたあの娘さんが、お父さんの名前でその雑誌の編集をやっている。で、載っている作品が、かなりよかったのね。乱歩さんはそれに目をつけて、その中から三編か四編、毎月契約して『宝石』に載っけていたんです」。
そこへ、ある新聞社が本国版を丸ごと契約しようとする動きに出ます。何としても宝石社で手掛けたい乱歩は、何人かに編集を担当してくれないかと相談したが断られる。それでも諦めきれず、小林に話を持ちかけたのでした。

ちょっと一言。夫からの離婚要請に応じないために“殺される役”ミリアムを演じたのは別の女優で、パトリシアの役どころは、ミリアムの夫の恋人の妹バーバラです。対談が行なわれたのは1994年。映画の公開は1953年のことですから、小林がカン違いしたのも無理はありません。なお、パトリシアは「サイコ」にも出演しています。

さて、小林が見本を編集会議に持っていくと、「訳の分からない見本が出てきたので、みんな息を飲んでたね(笑)」。表紙の絵は、武蔵野美術学校に在学中の泰彦が描いた。この学校はムサビの前身で当時は吉祥寺にあり、学生は、商店街の店のチラシやマッチの作成をアルバイトにしていたそうです。見本の写真は『東京のドン・キホーテ』49ページに出ています。もっとも、実際の創刊号の表紙は、椅子に腰掛けた男性が吹いているスーザフォンの開口部に赤いワンピースの女性がピストルを向けている写真でした。

小林の編集長生活が始まります。『文學界』(P/913.6/B89)2009年7月号に載せた自伝的中篇「夙川事件 谷崎潤一郎余聞」によれば、「宝石社と呼ばれるその小さな建物は、虎ノ門の交叉点から遠くない西久保巴町の片隅にあって、辛うじて空襲による焼失をまぬがれたように見えた」。乱歩が「怪人二十面相」を連載している雑誌の編集者がやって来る場面があります。

「テレビ放送のせいもあってか、私どもはとても喜んでおります」と改めて頭を下げた。
「もう舞台にするところがなくて困ってる。なにか考えてくれないかね。」
「いえ、今のままで充分に面白いと考えておりますが……」
乱歩はすぐには答えない。私(小林です)は息を飲んでタイプの文字を凝視している。
「そう言ってくれるのはありがたいが、今のままでは終りまで保(も)たないよ。少年物の読者はこわいんだ。あっという背景がないと、続かない」
言おうかどうしようか、ためらった私は、思いきって口を開いた。
「先生、そこ(注:傍点付き)がありますよ」
「なんだい?」
「去年の暮に出来たばかりの東京タワーです」
窓からは見えないが、四ヶ月前にオープンした、〈エッフェル塔より高い〉タワーは会社のすぐ近くだった。

創刊前後から以降のことは『小林信彦60年代日記』(白夜書房)が詳しい資料となっている。一番古い日付は1959年2月5日。小林は26歳です。
「…午後、宝石社の人たちと、タトル商会へ行く。「アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリ・マガジン」の翻訳交渉権の詰めである。月額十万円の予定だったのが、六万三千円で話が決まった。日本での誌名は「ヒッチコック・マガジン」になる。」
このあと、二人の人物の名前が出てきます。
8月28日「…夜、阿木由起夫(野坂昭如)氏に会う。コマソンの売れっ子でTV作家。…」
11月14日「阿木由起夫氏と月曜日の打合せ(表紙のモデルをやってもらう件)。「週刊読売」の記者(注・長部日出夫雄氏)、永六輔の特集をするとかで、話をききにくる。永六輔氏が、放送業界以外の知人として、私を指名したらしい。…」

野坂昭如の『東京十二契』(文藝春秋)は、あとがきとオビにあるように、「昭和二十五年から、三十九年までの、土地とのかかわりをえがき、ふた昔近い以前のことだから、いちおう、記憶をよみがえらせるよすがとして、訪れてみた」“12の巷に失われた時を探す 風来 色眼鏡の東京センチメンタルジャーニー”です。土地との契りを綴った十二契それぞれの扉には、往時を辿る参考のため、ごく簡単な見取り地図が付いていますが、其の五契「六本木、消えた坂道」で野坂は、1963年も押しつまった頃、身重の妻と竜土町に引っ越す。
「すぐそばに小林信彦が住んでいた。彼が編集長だったヒッチコックマガジンに、ぼくは三十四年十二月号から翌年三月号まで、表紙のモデルをつとめたことがある。」

上京してまず住んだのは四谷愛住町。其の十二契「質屋米屋風呂屋四谷」は、都合三度の四谷住まいを回想する。小林は“コマソンの売れっ子でTV作家”と書いたが、野坂自身は、
「作詞は楽に金になる。だが、「イトウへ行くならハトヤ、電話はヨイフロ」なるフレーズはハトヤ旅館のパンフレットにあって、ぼくの言葉は「ハッキリ決めた、ハトヤに決めた」だけ。「文化放送、文化放送、JOQR」なら、その前の、「ランランラジオはQR」だけ。…、いい加減空しくなる。」

野坂が続けます。「そして作詞といえば、永六輔が前年、「黒い花びら」で第一回レコード大賞を受け、NTV「光子の窓」で永は、日本のヴァラエティショウの基礎を築いていた。まさに飛ぶ鳥落とす勢い、活字の世界へ移りたいと考えていたら」永の著書が書店に並ぶ。ある雑誌から原稿依頼を受けてどうにか仕上げたが、「送られてきた雑誌を開くと、ぼくのは没。代りに永六輔氏が、注文のテーマで書いている」。

この頃のことは、やはり四谷愛住町から始まる野坂の自伝小説『新宿海溝』(文藝春秋)にも出てきます。本人こそ保坂庄助となっていますが、登場する人も店もほとんど実名、巻末には人名索引と店名索引が付いて、まずノンフィクションの気配です。永六輔ももちろん索引にあり、111ページにはこう記されている。
「庄助は、銀座三丁目並木通りに面したビルの中の芸能事務所に勤めていた、…月一万円の禄を喰み、名義だけの社長永六輔は、何もしないで二万円、月の二十五日になると給料を受け取りにあらわれる」。

セキ・コエ・ノドに、とくればアサダアメ。『広辞苑』(R/813.1/Sh49ko6)にも出てくるってご存じでした? 山下勇三が描いたイラスト広告を思い浮かべる方もあろうかと思いますが、コピーを担当していたのが永です。コンビで30年作り続けました。『せきこえのどに六輔』(飛鳥新社)は全214ページのうち128ページが、浅田飴の雑誌広告を再録したカラーグラビアに充てられています。あとは永・山下・矢崎泰久の鼎談ですが、矢崎曰く「野坂さんに言わせると、永さんは常に目の上のたんこぶだったって。何かしようとすると永六輔ってのがいつもいてね、本当に辛かったって」。「はっは、大袈裟だよ、そんなの」。

永はいたって鷹揚ですが、野坂の方はそうはいかない。『東京十二契』でまた愚痴る。
「なりふりかまわず、活字にとっかかりたくて、ヒッチコックマガジン編集長中原弓彦ににじり寄り、小生は、ちょいとひねった絵柄の、表紙モデルとなった。これは四号で馘、次ぎに起用されたのが、永六輔」。
冒頭の写真、ゴルフクラブを構えた長~い顔の男性こそ永。右下にアップがあります。収まりきれていない。

小林は、仕事を通じて接した“推理小説界のために老体に鞭打って働いた大人(たいじん)”乱歩の姿を、『新潮』(P/910.5/Sh61)1971年6月号に、中篇「半巨人の肖像」として発表する。青年今野が作家の氷川鬼道から依頼されて新雑誌の編集に携わる、という私小説です。鬼道が“冗談ともつかぬ調子で”「今野君は、若いから、押っ放り出しても、どうにかなるだろうな」と言う場面が出てきますが、実際、明智小五郎ならぬ乱歩から、「小林くん」と少年探偵団の団長のように呼びかけられる日々は、長くは続きませんでした。実名小説「夙川事件 谷崎潤一郎余聞」は次のように終わる。
「その年の暮に私は会社をやめた。やめさせられたというべきだろう。西久保巴町には毎日通っていたが、東京タワーを見上げたことは一度もなかった。そんな余裕がなかったのだ」。

1962年12月12日の『小林信彦60年代日記』は、「マイ・バースディ。なんと三十歳である。新婚早々(注・十月十三日に結婚、葉山に転居ずみ)だから、そうガックリもこないが、独身だったら、さぞや、ゆううつだろう。…」と退職のことには触れていませんが、自注が追加してあります。「十数日たって、私は〈経費削減のための人員整理〉を申しわたされる。それからあとの事情は、ほぼ小説「夢の砦」に描かれているようなものである」。

その後の小林は、例えば『文藝春秋』(P/051/B89)2001年1月号からの連載「テレビの黄金時代」にあるように、テレビの世界の人となっていくのですが、長篇『夢の砦』(913.6/Ko122y)付録の談話で、「実際に、ぼくを初めてテレビ局に連れていってくれたのは野坂昭如さんでしたが(笑)」と述べています。

ところで、『ヒッチコックマガジン』はどうなったか?
1963年3月号の編集後記の一部:「創刊いらい、四年、本誌と共に歩んできた小生、この号をもって編集部を辞し、フリーな立場で活動することになりました」。
ここまで増刊号2冊を含んで46冊。

1963年6月18日の日記に引用された『週刊朝日』の記事:〈「ヒッチコック」(ママ)は実に残念である。何よりもこの雑誌は創刊以来キビキビしていた。雑誌に若さがあった。この若さは主として、中間読物に示されていたが、若干、危なっかしくもあった。この“危なっかしさ”が、しかし、この雑誌の“今日的生命”でもあった。(以下略)〉。
初めに本国版と契約しようとしたのは朝日新聞社でした。小林は「もって瞑すべし」と書き加えている。そして、「私が離れたあと、四号出て、廃刊になった」。

ヒッチコックの言葉:「皆さんこんにちは。ごきげんいかゞですか? 日本版ヒッチコック・マガジンが休刊ということで、がっかりしていましたが、昨年秋につづいて、こん度また別冊宝石から、ヒッチコック・マガジン自選傑作集が出るとの報、うれしく思っています。…」
(『別冊宝石 ヒッチコックマガジン自選傑作集』(1964年4月)より)
(M)

おまけ:
1月7日(土)の朝日新聞別刷に、永六輔の特集が組まれています。生家は浅草寺から徒歩約20分の最尊寺というお寺。「現在の住所は台東区元浅草3丁目だが、64年までは「永住町(ながすみちょう)」という町名だった。永さんは、自分の名前の永が入っていることもあって、好きな町名だった。…」。野坂が住んだ四谷愛住町は、「ハイカラ風町名だが、命名は明治五年、その由縁は、隣人ともに愛し協力し合って住みいい町を作ろうというもの」(『東京十二契』より)。
私が行ってみたかったのは長野県読書(よみかき)村です。塚本邦雄『断言微笑 クロスオーバー評論集』(読売選書)に、「白地図告知」という一文があります。幼年期から地図は「地名を読む」ためのものと心得て専念してきたこの歌人が、慈しむように書き連ねる幾多の町名・村名などの字面と読みの見事さには、圧倒されるばかり。一方で、地名変更の大愚を激しく批判し、例えば合併によるものを槍玉に挙げて、「大森と蒲田の下半上半を削って加へた「大田」なる怪区名」などと憤っている。「町村が合併すると必ず「三和町」風の愚にもつかぬ調停案名が生れるのも笑止なことだ」とも。しかし、「信州は木曾の、「与川(よがは)・三留野(みどの)・柹其(かきぞれ)」三村落の合併の際、「読書(よみかき)」と命名した」ことは「巧妙抜群の言語感覚」と、手放しで称賛しています。
本を携えて訪れるのにピッタリの名前ですよね。『角川日本地名大辞典 長野県』(R/291.033/Ka14/v.20)によれば、明治7年から昭和35年末まで存在した。野坂や永が『ヒッチコックマガジン』の表紙を飾った年まで続いた訳です。翌年1月1日の合併によってこの村名はなくなった。暑を避けて、夏の信州で読書三昧…。未だ諦めきれません。

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