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『泣き語り性教育・一について』 2015-01-07

カセット劇場 筒井康隆大一座第二巻にあたる、『泣き語り性教育・一について』(中央公論社)です。『筒井康隆全集』(913.6/Ts93)第8巻、第23巻所収の2短篇を聴くことができる。いずれも、セリフのやり取りだけの作品。外函の解説に、「スタジオ録音60分テープに、ロケーション撮影のスチール・フォトを加えた、目と耳で愉しめるカセット劇場」と書いてあるが、スチール・フォトは、全48分間に及ぶ前者の分が圧倒的に多く、しかも、まさしく絵にも描けない面白さ。外函には、校長先生とセーラー服の生徒(キャスト一同)の集合写真が使われています。「一について」は、筒井康隆とかんべむさしの掛け合い漫才です。

田村隆一の訳書に、『我が秘密の生涯』(学藝書林)があります。全11巻。訳者は第1巻あとがきに、「…、読者は、この本をいかなる図書のジャンルに組みいれようとされるであろうか。要するにポルノさ、とかたづけられるであろうか。…」と問いかけて、「『我が秘密の生涯』は性的自伝である」と記す。

完結にあたっては、「三鷹大沢の二軒長屋で第一巻を訳了してから、ちょうど九年になる」と述べています。大沢のどこに居たのか、チョッと気になる。
関係ありませんが、「三鷹の田舎、包みに三つ、家内の形見」は、村上春樹の作った回文で、「三鷹市井口新田の実家に、妻の形見が置いてあるわけです。…」と解説を付けています。なぜ井口新田なのか、これも気になるところ。

エッセイ集『青いライオンと金色のウイスキー』(914.6/Ta82a)によれば、田村が住んでいたのは、三鷹大沢の棟割長屋だという。引っ越して来たのは1968年。岸田衿子(谷川俊太郎元妻)と協議離婚する1年前のことです。

吉本隆明『際限のない詩魂 わが出会いの詩人たち』(911.52/Y91s)の田村隆一の項は、「わが国でプロフェッショナルと呼べる詩人は、田村隆一・谷川俊太郎・吉増剛造の三人ということになる」で始まり「田村隆一はその第一号だ」と続く。
現代詩文庫特集版1 野村喜和夫・城戸朱理編『戦後名詩選 I』(思潮社)は、「吉岡実が戦後最高の詩人なら、田村隆一には最大の詩人という形容を与えよう。方法より何より、生きることがそのまま詩人であるような、ほんとうに稀有な存在、それが田村隆一だ」と紹介しています。(このアンソロジー、吉本と谷川、吉岡も入っているが、吉増の名はありません)

1998年1月3日の新聞に、ある全面広告が掲載されました。『戦後名詩選 I』編者のひとり城戸朱理によれば、
「…度胆を抜かれた人は少なくないだろう。全国紙4紙の一面広告で、田村隆一が登場。しかもコピーは「おじいちゃんにも、セックスを。」。当時、大いに話題を呼んだ宝島の広告である。
この撮影は前年の12月なかばに、駒沢公園で、自然光で行われたものだという。実は、このとき田村さんは食道癌で闘病中だった。依頼を伝えた悦子夫人に、「俺は病人だぞ」と田村さん。しかし、悦子夫人が謝礼の額を話したら、田村さんは豹変、「じゃあ、やるか」ということになったのだという」

宝島社の企業広告でした。当初はプロを使うつもりで、モデル事務所に打診してみたが、「孫も見るから…」と皆に尻込みされて、田村に決まった。
宝島社によれば載せたのは3紙。それぞれ、朝日広告賞準朝日広告賞、読売出版広告賞書籍部門賞、毎日広告デザイン賞優秀賞を受賞しました。

広告コピーライター前田知巳の田村評は、
「コピーの意図を瞬時に見抜いて『僕なら、おじいちゃんにもタックス(年寄り税)を。』にすると言われた。熱いのに冷めていて、世界をシリアスに見れば見るほど笑い飛ばしてしまう田村さんの感覚。それはあのコピーに似ていた。田村さんは新しい」

城戸はこう続けます。
「同じ年(注:1998年)の8月に田村さんは亡くなったわけだが、この広告の謝礼は、ちょうど入院費をまかなえる額だったとか。さすがは田村さん。ちゃんと辻褄を合わせて、世を去ったことになる」
享年75歳。9月9日の新聞には、1月の写真を小さく黒枠で囲い中央に配置して、その下に、「戦後派最後の詩人」田村隆一氏のご冥福をお祈りいたします 宝島社、余白右上に、「じゃあ みなさん/これから いろいろ 大変だろうけど/お先に失礼します」とコピーをつけた追悼広告が載りました。

1982年刊の詩集『スコットランドの水車小屋』の1篇「1999」は、"「1999」 という詩集が出してみたい/もしそれまでに生きていられたら/たっぷり十八年間ぼくは"と詠って、"今日の仕事はこれで終わり/では/おやすみ"と結ばれるが、田村は、「21世紀は見たくない」と言い残したとも伝えられています。

没後10年、「宝島社の企業広告・17の提言」を副書名に、別冊宝島『おじいちゃんにも、セックスを。』が刊行される。表紙写真も新聞広告そのままです。まえがきに代えてのページにおおきな文字で、「言葉なんか 覚えるんじゃなかった」と、田村の詩「帰途」の冒頭を掲載し、本文には全文を引用している。

『戦後名詩選 I』に収録された田村の詩は、「腐刻画」、「立棺」、「帰途」、「毎朝 数千の天使を殺してから」、「1999」の5篇です。「立棺」は解説にも引用されている。

別冊宝島のインタビューで、石田衣良が、「私生活では5回の結婚をしますが、男性としての魅力にも溢れていたのでしょう」と言っています。年譜によれば、最初の結婚は25歳のときで、相手は鮎川信夫(本名は田村と一字違いの上村隆一)の妹だった。

北村太郎の詩「センチメンタル・ジャーニー」を引用した『詩人のノート』(080.1/A/311)に、田村は、北村と府立三商で同学年だったこと、詩誌『アンバルワリア』を創刊したことなどを記し、「北村太郎とは因縁が深い。きわめて深い。このぶんでは、来世までつづきそうである」と書いたが、そのとおり。
北村は戦後、『荒地』の創刊にも参加し、さらには、田村の4番目の妻、和子を奪った。出版社港の人PR誌『港のひと』創刊2号に、田村和子が小文「タローさんとサブロー」を寄せています(港の人ホームページで閲覧可)。

ねじめ正一が、和子を「明子」にして書いた『荒地の恋』(文藝春秋)は、オビの副文どおり、"詩神と酒神に愛された男・田村隆一。感受性の強いその妻・明子。そして、明子と恋に落ちる北村太郎。荒地派の詩人たちの軌跡を描く力作長編小説"で、第3回中央公論文芸賞を受賞した。

田村の再婚を巡っては、相手もいないのに日取りを決め、式場を予約し、仲間からは祝儀を集めたうえ、友人の一人福島正実に泣きついて、そのいとこを花嫁にした、というエピソード(?)が残っている。経緯は、宮田昇『新編 戦後翻訳風雲録』(910.4/Mi84sh)に詳しい。
同書の本文は、「詩人と無頼とは、紙一重である」という、フランス文学者で明治大学学長も務めた斎藤正直の言葉で始まっていて、何やら印象的なのだが、斎藤正直の項に曰く、
「奇しくも斎藤は、田村の、鮎川信夫の妹である最初の夫人との結婚の仲人をしていた」。

余談:
そんな田村が、『週刊読売』の連載をまとめた『女神礼讃』(廣済堂出版)に書いています。
「『朝日新聞の記事にみる「恋愛と結婚」』(朝日新聞社)て文庫本があるんだが、これは抱腹絶倒だ。たとえば、「身替わり花嫁でも円満」っていう記事がある。明治十六年の話だ。とある金持ちの息子の結婚式で、待てど暮らせど花嫁が来ない。何が気に入らなかったんだか、姿をくらましちゃったんだ。お客はもう集まっているし、今更逃げられましたじゃ面目が立たない。そこで仲人さんが、知り合いの娘さんに、式当日だけ身替わりになってくれるように頼んだんだ。で、式も無事終わったら、そのまま結婚しちゃえばいいじゃないかという話になって、二人はめでたく夫婦になったと」
さらにそのあと、
「式の間際に相手に逃げられるってのは最近でもよくあるそうだからさ、ちょっとこの手を参考にしたらいいんじゃないか」。

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