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わたしはただかんがえました、それはよくなるはずだと、もしもわたしがちいさなコラムをかければ。 I just thought that it would be nice if I could write a little column. (2008年1月10日)

クリスマス・正月シーズンに禍々しいコラムを掲載していたので、今回はマイルドな口調でマイルドな話題をお届けします。

日本語の話。日本の義務教育を受けた人なら皆「主語・述語」という言葉を知っている。だから、「実は日本語には主語がない」と言ったら、殆どの方は「?」と思うんじゃないか。より正確に表現すると「日本語の構文においては、英文法で言われるところの subject と同様の働きをする成分はない」ということ。金谷武洋著『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[815/Ka47n]『主語を抹殺した男 評伝三上章』[289.1/Mi212k] を読んだ。言語学専攻の学生さんなら常識なんだろうけど、筆者みたいな門外漢にとって、これは新鮮な主張。

小学校の国語の授業で「文にはかならず主語と述語がある」って習ったはずだが。先日も長男の宿題の中に「次の文の主語を書き出しなさい」という問題を見た。この国の日本語教育は今でも主語はあるという前提に立って行われているヨシ。いったい主語がないってのはどういうことなのか。

主語というのは「何がどうする」「何はどうである」の「何」に当たる語であるとされている。「何」がない文なんてあんの? 文に主語がないと言いたい事が通じないじゃないですか。 …実はこういう思考回路こそ、明治以来100年以上も続いてきた英文法中心に日本語文法を解釈した末の勘違い教育のなせる業だという。うーむ。たしかに、実際にわれわれが話す(または書く)日本語をよく観察してみると「何」に当てはまる言葉は多くの場合使われていない。たとえば、

「2階は、先生に貸しています」

の主語はなんだろか? 主語には助詞「は」や「が」がついていると習ったような気もするから、「2階」が主語なのかな? や、や、そんなふうに考えるからこないだジョンに「明日は忙しいから」と言おうとして “Tomorrow is busy so...” なんて言って笑われちゃったじゃないの。Second floor is.. じゃダメなんだ。「2階」は「貸している」主体に当たる語じゃないもんね。日英両話者の方ならすぐに分かると思うけど、英語ではこんな文章は成り立たない。「先生が2階を借りている」というふうに文を作りすか、もっと自然には「誰が」先生に部屋を貸しているのかの主体を登場させる。“We are renting the second floor room to Prof.XX.”みたいに。そうだよ。そういえば習ったじゃないか。日本語においては頻繁に主語が省略される、って。だから、この文の「正しい主語」はたぶん「私(か我々)」 いや、ひょとすると「彼(彼女)」。いんや、もっと広げて「あなた(あなたたち)」かもしれない。ところで、この文章に続く会話を想定してみた。

「2階は、先生に貸しています」
「え? そうなんですか?」
「はい。何か?」
「いやー、空いてるかとばかり思ってたんで…」
「ああ。残念でしたねえ」
「あ、いいんですよ。すみませんでした。また来ます」

というとても自然なまっとうな日本語と思われる会話において、各文の主語はどこにあるか。ちなみに同様の場面で想定されるごく自然でまっとうな英会話は以下のとおり。

We are renting the second floor room to Prof.XX.”
“Oh, you are?”
“Yeah. Why do you ask that?”
“Uh... I thought it was available.”
We’re sorry.”
It’s O.K. Thank you. I’ll be back.”

なるほど主語だらけなのだ。これに倣って日本語にも省略されていると思われる主語を補ってみるベシ。

われわれは、2階は、先生に貸しています」
「え? あなたがたは貸しているのですか?」
「はい。あなたは何かを聞きたいと思っていますか?」
「そうではありません。2階は利用可能な状態だと思っていました」
「ああ。われわれは(あなたの事を)かわいそうに思います」
「あ、この事態は問題ありません。ありがとうございます。はまたここに来ます」

なんか他の部分も影響受けちゃってへんにかしこまった文になってしまうなあ。われわれはこういう主語入り文章をまず頭に描いて、しかるのちこれらを省略して話しているだろうか。もしくは、かつてはこのように話していたが段々に省略されてしまったのだろうか。それよりも「もとから日本語には主語なる概念はない」と考えた方が妥当のような気がする。英語と日本語の文法は「根幹の部分で異なっている」んだから、無理に互いの枠で解釈しあう必要はないんじゃないか? 著者の提唱する盆栽型文法はシンプルで日本語の感覚にストンとマッチする。そして教室生まれの言語学者である著者が太鼓判を押すとおり、セカンドランゲージとしての日本語教育において抜群の威力を発揮するだろう。かならず「わたーしわぁー」「それわぁ」と話し始める不自然な外国人日本語をなくせるかもしれない。

主語論争に絡めて著者はチョムスキーの生成文法を舌鋒鋭く攻撃し激しい批判を展開している。生成文法の基礎にあるのは、人間は生まれながらにして「普遍的な文法」を持っており、それが個別の言語用にカスタマイズされていくという説だ。しかし、主語が不可欠である英語ほかの言語に偏った研究のありかたと、それ以外の(日本語のような)言語への適用にかなりの無理がある事が指摘されている。著者もさすがにここまでの言葉は使ってはいないけど、「生成文法がかくも難解であるのは、あらゆる物を飲み込むためのこじつけ理論であるから」というのが実のところだろう。これらの本を読んで興味を持ったから、筆者も生成文法についてもちょっと齧ってみるかという気になった。生成文法の方にも当然それなりの正当な主張があると思うから。critical thinking を叩き込まれたICUのOBにはこんな時「両者の意見を聞け」と天の声が聞こえてくる。

言語学者であり筆者の親友でもあるK大学のW氏に聞いた話では、言語の中にはアイヌ語やイヌイット語のように、動詞にさまざま要素が餅のようにくっついて、一つの不可分な単語となって文を構成する「抱合語」なる言語があるとか。Wikipediaによれば「いろいろのうわさについて、私は遠く自分の心を揺らし続ける=思いをめぐらす」という文が、アイヌ語ではわずか2単語で表現される。いったい「名詞」と「動詞」は別のものなのか。文法における「品詞」の概念はユニバーサルなものではないのではないか。全てが説明可能な唯一正しい文法などはないのではないか。世界中の言語が同じ理論で説明可能だというのは学問を超えており、もはや信仰に近いのではないか? これらの本から、検証不可能(実証も困難)な言語学という学問の醍醐味と限界を垣間見た気がする。

金谷武洋/著 『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』 [815/Ka47n]
金谷武洋/著 『主語を抹殺した男 評伝三上章』 [289.1/Mi212k]

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